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白石宗実
白石宗実(しろいし むねざね、1553年(天文22年) - 1599年10月(慶長4年))は、伊達氏の家臣。
白石氏は、祖父・白石宗綱の代から伊達氏に仕えている。 宗実は伊達輝宗の頃から伊達氏に仕える勇将で、1584年には伊達輝宗・伊達政宗父子に従って相馬氏との戦いに出陣、駒ヶ峯城攻めで殿軍を勤め、相馬軍の執拗な追撃を斥けている。 また、1585年の大内定綱攻めや人取橋の戦い、1589年の摺上原の戦い、1593年の文禄の役など多くの合戦に参加して武功を挙げて活躍した。 また武功だけでなく、二本松城の畠山氏と激しい抗争を繰り広げていた伊達氏に対し、相馬義胤から和睦勧告の提示があり、宗実はこれを政宗に取り次ぎ和睦成立に貢献したりもしている。 それらの功により、1586年には、大内定綱の旧領・安達郡塩松三十三郷を加増された。 のちに豊臣秀吉の奥州仕置によって会津を収公され、伊達氏が岩出山に移封となった為、旧大内氏の所領は失い、1591年に伊達政宗から胆沢郡に一万五千石の所領を新たに与えられ、同地に移住、水沢城主となった。 1599年伏見において没する。 享年47(一説に55説もある)。
宗実には男子がなかった為、 伊達稙宗の八男、梁川宗清の子、宗直が、宗実の娘に配されて家督を継いだ。 白石宗直は伊達政宗から伊達の姓を賜り、登米伊達氏の祖となった。
原田宗時
原田 宗時(はらだ むねとき、1565年(永禄8年)- 1593年7月(文禄2年))は、安土桃山時代の人物。 伊達氏の家臣。 原田宗政の甥(父は山嶺源市郎)。 虎駒。 左馬之助。
宗時の原田氏は伊達氏初代の朝宗以来の代々の宿老といわれる。
宗政に嗣子が無かったため、1582年に宗政が戦死すると、その後を継いだ。 伊達政宗に早くから仕え、武勇に優れていたことから政宗の厚い信頼を受けた。 摺上原の戦いにも参加して武功を挙げている。
1593年、朝鮮出兵のときに政宗に従って渡海したが、まもなく釜山にて病を患い対馬国にまで戻ったが、そこで同年のうちに病死した。 政宗は宗時のあまりにも早すぎる死を惜しみ、『国風六首』を詠じた。
後藤信康と対立関係にあり、日頃の信康の態度に憤激した宗時は信康に決闘を申し入れたが、信康に諭され和解したという武人らしいエピソードも残る。

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後藤信康
後藤 信康(ごとう のぶやす)は、戦国時代の武将。 伊達氏の家臣。
経歴
湯目重広の次男として生まれるが、後藤信家の養子となって後藤氏の家督を継いだ。 智勇に優れた武将だったため、主君の政宗から厚い信任を受け、天正13年(1585年)に檜原城主に任じられ、蘆名氏との戦いで功績を挙げた。 その器量は武田家重臣高坂弾正の再来とまで言われるほどであった。
天正19年(1591年)、政宗より亘理郡坂本城主に任命される。 文禄元年(1592年)からの朝鮮出兵においては、政宗に従って渡海し、武功を挙げた。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでも上杉景勝軍と戦って武功を挙げている。 しかしこれほどの武将にも関わらず、その後の行方も没年も各地に伝わる逸話を除けば委細不明である。
逸話
伊達家臣団の中では智勇に優れた名将として知られた。 また、黄色の母衣を着けて常に戦場に赴いたため、「黄後藤」と称されて恐れられたという。
勇猛と評される信康の活躍を妬んだ原田宗時に決闘を申し込まれ「このような事で忠臣を二人も失ったら御家のためにならない。どうせ死ぬのなら共に御家のために尽くそうではないか」と説諭した。
その言葉に目が覚めた宗時は改心し、二人は互いに良好な関係を築いて共に武功を重ねていった。
檜原城主であったとき、政宗に対してあまりに退屈なので、城主を解任して戦場に赴かせてほしいとまで言ったとされている。
上記の嘆願を拒否された信康は悲観し、戦支度を整えたのち愛馬五島の背に跨り、諸共崖下へ身を投げたといわれる。
また異説として、仙台市青葉区片平の馬上蠣崎神社には、郷土史家三原良吉により「藩祖政宗公に献じた愛馬五島が大阪冬の陣に漏れた事に嘆き悲しみ、居城の本丸より崖下に飛び降り死亡した」との逸話が神社の由来とともに伝えられている。

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鈴木元信
鈴木 元信(すずき もとのぶ、弘治元年(1555年) - 元和6年(1620年)6月)は、伊達氏の家臣。 通称は七右衛門。 別名に秀信とも。 官位は従五位下。 和泉守。
出自や伊達氏に仕えるまでの経緯については、天正期には雑賀衆に参加していた説、京都の茶人であったが、その縁で伊達政宗と知り合い家臣となったという説、米沢地方の住人で謡に優れていた事から、伊達輝宗に召抱えられたという説(治家記録)、鮎貝地方の臼ヶ沢金山を経営していた豪商であった説(鮎貝の歴史)など諸説ある。
行政能力、財務能力に優れた才能を持っていたことから、政宗の厚い信任を受けて古川城に1500石の所領を与えられ、政宗が仙台を留守中には国家老として政務を執った。 慶長〜元和時代の分限帳では本人の禄が2464石ながら、一門・家士の禄が別に1万石から2万石を与えられ、家臣団の筆頭となっている。
元信は、政宗が天下人になること、つまり伊達幕府ができることを夢見て、政宗が天下を取ったときのための「憲法」や「条々」などを用意していた。 しかし1620年の死の直前、もはや政宗が天下を取ることもないだろうと悟って、それらを全て焼き捨てさせたと言われている。
猪苗代盛国
猪苗代 盛国(いなわしろ もりくに、天文5年(1536年) - 没年不詳)は蘆名氏の家臣。 はじめ平太郎・弾正忠と称し、初名は盛親。
猪苗代氏は蘆名氏の重臣であるが、自立傾向が強く度々反乱を起こしていた。 盛国も最初は蘆名盛氏の家臣として仕える。 1585年、嫡男の猪苗代盛胤に家督を譲って隠居したが、1588年、後妻の息子が可愛くなって、後妻の讒言に乗って、盛胤を廃嫡しようと画策。 盛胤に譲ったはずの猪苗代城ごと伊達軍に寝返り、その軍勢を招き入れ、摺上原の戦いでの蘆名氏惨敗の原因を作った。
その際、後妻の息子を伊達方に人質として差し出している。
この功績により、伊達氏の準一門に列せられて五千石を食む栄光を手に入れたのである。

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屋代景頼
屋代景頼(やしろかげより、永禄6年(1563年) − 慶長13年(1608年))は伊達氏の家臣。 勘解由兵衛。
兄がいたが、他家に養子として出されたため、14歳で家督を継ぎ、伊達政宗に仕えるようになった。 1589年、5000石を領し、翌年には若くして奉行に任じられ、文禄の役で政宗が朝鮮に出兵しているときは、伊達氏の居城である岩出山城の留守居を任されるほど、政宗の信任は厚かったという。
しかし、葛西氏の旧臣を粛清したり、伊達成実が恩賞の不満から高野山に出奔したとき、成実の妻子一族を皆殺しとするなど、(この妻子殺しは、成実の妻子が当時そもそも存在しなかった等の異説もあり)次第に傲慢で許しがたい行為が目立つようになり、1607年に政宗より罪を問われて改易されて追放された。 そして近江を流浪し、そこで1608年に病死した。 伊達家の旧領であった現在の山形県東置賜郡高畠町に屋代と言う地名が残っている。
改易・追放の理由について
藩政固めの強化が行われていたこの時期、それまでの国人など在地勢力の独自の裁判権などを奪い制限し、藩主主導の下に何事も判断すべしという風潮の中、景頼はある国人に対して「独断で年貢未納の農民を斬刑に処すように教唆した」という事が露見し、改易・追放の主原因となったのではないかと小林清治氏(福島大名誉教授)などが考察している。

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遠藤宗信
遠藤 宗信(えんどう むねのぶ、元亀3年(1572年) - 文禄2年4月13日(1593年5月13日))は、安土桃山時代の人物。 伊達氏の家臣。 通称、文七郎。
遠藤基信の子。 天正13年(1585年)に父基信が殉死したため家督を継ぎ、伊達政宗に仕え宿老となる。 文禄元年(1592年)の朝鮮出兵では政宗に従い渡海する。 帰国後の文禄2年(1593年)に京都にて22歳で病没。
大内定綱
大内 定綱(おおうち さだつな、天文14年(1545年) − 慶長15年(1610年))は戦国時代の武将。 仮名は太郎左衛門、勘解由左衛門。 受領名は備前守。 法号は廉也斎。 父は大内義綱。 弟に片平親綱。 子に大内重綱がいる。 陸奥国安達郡小浜城主。 後に伊達氏家臣。 本姓は多々良氏。
生涯
大内氏は、父・義綱の代に田村氏の内応工作に応じて主君・石橋尚義を追放し、塩松領主となって田村氏の旗下に属していたが、家督を継いだ定綱は、田村・大内両家の家臣同士の争いの裁決に対する不満から、次第に田村氏からの独立を目論むようになる。
1582年、伊達輝宗が小斎城を攻めた際に、輝宗の陣に参上して傘下に入る。 またこの頃、娘を二本松城主畠山義継の子・国王丸に嫁がせて足場を固めた。 こうして1583年、田村領の百目木城主石川光昌(石橋氏旧臣、義綱と組んで尚義を追放した)を攻撃、田村氏と対立していた蘆名盛隆の支援を受けて田村清顕を破り独立を果たす。 しかし、1584年に輝宗の子・政宗(正室は田村清顕の娘・愛姫)が家督を継ぐと、政宗は田村氏に加担して定綱を攻撃し、小手森城で撫で斬りを行うなどしたため、定綱は小浜城を放棄して二本松へ逃れ、ついで会津の蘆名氏を頼った。 1588年、郡山合戦の際には蘆名氏の部将として苗代田城を攻略するが、伊達成実の誘いに応じて弟の片平親綱と共に伊達氏に帰参した。
以後は、摺上原の戦いや葛西大崎一揆、日明戦争にも従軍して功績を立てた。 1591年、政宗が岩出山城に転封されると、胆沢郡に20邑余(およそ10000石)の所領を与えられ、前沢城主となった。 関ヶ原の戦いの折には京都伊達屋敷の留守居役を務めた。 子の重綱の代にはこれらの功績により、一族の家格を与えられた。
定綱自身は戦上手として名高く、調略にも長け、また槍術(十文字槍)にも優れていたという。
どのような援助が好ましいのか
逆援助に関して考えてみよう。
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