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伊達家臣
片倉景綱
片倉 景綱(かたくら かげつな)は戦国時代から江戸時代前期にかけての武将である。 伊達氏家臣で、伊達政宗の軍師役を長年務めた。 仙台藩片倉氏の初代で、景綱の通称「小十郎」は代々の当主が踏襲して名乗るようになった。
生涯
米沢の成島八幡神社の神職・片倉景長の次男。 生母は本沢刑部真直の娘。 異父姉は政宗の乳母の喜多(政岡)。 叔父に意休斎景親。 鬼庭綱元(喜多の異母弟)は義理の兄に当たる。
はじめ伊達政宗の父・輝宗の徒小姓として仕えた。 その後、遠藤基信の推挙によって天正3年(1575年)に政宗の近侍となり、軍師として重用されるようになる。
天正13年(1585年)の人取橋の戦いや天正16年(1588年)の郡山合戦、天正17年(1589年)の摺上原の戦い、天正18年(1590年)の小田原参陣、文禄2年(1593年)の朝鮮出兵、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いなど政宗の主要な戦争の大半に参加して、いずれも伊達氏の危難を救っている。 また安達郡二本松城在番、信夫郡大森城主、亘理城主などを歴任する。
関ヶ原の後の慶長7年(1602年)、主君・政宗が仙台藩主になると一国一城令が敷かれる中、特例として残された白石城1万3000石の城主となり以後、片倉家は明治まで11代にわたって白石の地を治め続ける。 仙台藩での片倉氏の家格は御一家である。
慶長19年(1614年)からの大坂の陣では病床に臥していたため、政宗に従うことができなかった。 元和元年(1615年)、病のために死去した。 享年59。 家督は子の重長(重綱)が継いだ。
嫡男・重長は大坂夏の陣における道明寺の戦いで後藤又兵衛らを討ち取るなど奮戦し、「鬼の小十郎」の異名を取った。 さらに重長の子・景長もまた小十郎を名乗り、伊達騒動の渦中にあって幼き主君・綱村を支えた。 代々伊達氏に仕えた「片倉小十郎」の名跡は、以後伊達家忠臣の鑑と称された。

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人物
伊達家中では「武の伊達成実」と並んで、「智の片倉景綱」と呼ばれた。 一説によれば剣術にも長け、幼少期の政宗の剣術指南も務めたと言われるなど智勇を兼ね備えた武将であったと伝えられている。 また大変な笛の名手であったとも言われる。
妻が重長を懐妊した際には当時主君・政宗に未だ子がいなかったのを憚り、実子を殺害しようとしたと言われる。
景綱の知才は、時の天下人・豊臣秀吉にも高く評価された。 奥州仕置のとき秀吉は景綱を直臣に迎えようとして三春5万石の大名に取り立てようとしたが、このとき景綱は政宗への忠義を選んで辞退している。
死後、景綱の人徳を慕った家臣6名が殉死したと言われている。
逸話
政宗が初陣の際、敵兵を深追いし逆に敵兵に囲まれてしまったことがあった。 そのとき景綱は「我こそが政宗なり」と進み出て相手を引き付け、政宗の窮地を救ったという。
政宗は幼少期に疱瘡(天然痘)が原因で右眼の視力を失った。 しかも病後その患った眼球が眼窩から突出し、その醜い顔貌から政宗は大きな劣等感を抱き無口で暗い性格になってしまった。 景綱はそんな政宗の性格を直すために政宗を侍医のいる部屋に引っ張っていき、自ら政宗の頭を抱え込み短刀で一気に眼球を抉り出したという。 これ以降、政宗は暗い性格から快活で文武両道に精進する少年に変貌したという。
別の逸話によると、剣術指南の折りに「戦場でその右眼をつかまれたらどうする」と問うたところ、政宗は脇差を抜き右眼に刺し、景綱に抉り取るよう命じたという。
政宗は書状の中で固有名詞を略す癖があり(田村を「田」、相馬を「相」等)、景綱宛の書状も私的なものは宛名が「かた小」となっている。 景綱が家督を息子に譲り、息子が「小十郎」を名乗るようになると政宗からの宛名は「かた備」(片倉備中守の略と思われる)になっている。 ちなみに政宗自身の署名も「政」だけのものがある。
慶長5年(1600年)、越後上杉氏が最上氏領内へ侵攻した際の救援作戦にて「すぐに救援には赴かず、両軍入り乱れ、疲労が極みに達した段階で攻め入り、上杉勢を完膚なきまで叩くべし」と進言した。 作戦としては合理的であるが、このとき山形城に母・保春院を置いていた政宗は流石にこの作戦を却下したという。

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石川昭光
石川 昭光(いしかわ あきみつ)は、戦国時代から江戸時代初期の大名、武将。
略歴
永禄11年(1568年)に岩城石川郡三芦城主・石川晴光の養嗣子となる。 天正13年(1585年)の人取橋の戦いでは蘆名氏や佐竹氏と同盟して、甥の政宗と戦った。 その後伊達氏に従うが、1590年(天正18年)に豊臣秀吉に小田原への不参陣を咎められて改易された。
以後は実家の伊達氏を頼り、家臣となる。 三兄の留守政景と共に政宗を補佐し、伊具郡角田城に1万石を与えられた。 伊達家内の家格は御一門筆頭。
慶長8年(1603年)、嫡子義宗に家督を譲って隠居したが、義宗が慶長15年(1610年)に早世し、嫡孫宗敬が幼少のため、家督に復帰して政務を執った。 元和元年(1622年)7月10日、死去。 享年73。

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留守政景
留守 政景/伊達 政景 (るす まさかげ/だて まさかげ、天文18年(1549年) - 慶長12年2月3日(1607年2月28日))は戦国時代から江戸時代の武将。 伊達晴宗の実子(三男)。 留守顕宗の養子。 妻は黒川晴氏の娘。 居城は初め岩切城(高森城)、後に利府城。 六郎。 雪斎。 上野介。
経歴
永禄10年(1567年)、留守氏の家臣の一部の要請と父・晴宗の政略によって奥州の名族・留守氏を継ぐことになった。 その後、政景の継承に反対する留守氏の一族・重臣である村岡氏や余目氏の反抗を鎮圧するとともに、兄・輝宗や甥・政宗を補佐し、実家の伊達家の勢力拡大に貢献し各地を転戦する。 一門であったため、当主に代わって伊達軍の総大将を務めたこともあったが、大崎合戦では岳父の晴氏の裏切りに遭い、手痛い敗戦もしている。
天正18年(1591年)、豊臣秀吉の小田原征伐に従わなかったために所領を没収される。 以後は伊達家に戻って、文禄の役に渡海して出陣、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでも最上氏の救援に赴き、上杉氏と戦った。
これらの功から、伊達姓に復することを許され、慶長9年(1604年)、政宗から一関二万石を与えられた。
長男・宗利はのちに金ヶ崎城主、水沢城主になった。

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亘理元宗
亘理 元宗(わたり もとむね、享禄3年(1530年) - 文禄3年6月19日(1594年8月5日))は、日本の戦国時代の武将で、陸奥の戦国大名伊達稙宗の十二男。 母は亘理宗隆の娘。 伊達政宗の大叔父に当たる。 子に亘理重宗、孫に伊達定宗。 幼名は乙松丸。 号は元安斎。
はじめ亘理家には兄の綱宗が養嗣子として入っていたが、早くに死去したため、元宗がその養嗣子として家督を継いだ。 甥の輝宗やその子政宗にも仕えて各地を転戦する。 1570年には、謀反が発覚して逃亡した中野宗時らを討って褒賞されている。 一族衆だったことから信任は厚く、所領が相馬氏と隣接していた事もあり、相馬盛胤との戦いでは伊達全軍の指揮を任されたこともあった。 人取橋の戦いにも参陣。 1594年、涌谷大貫で死去。 享年65。
亘理重宗
亘理 重宗(わたり しげむね、天文21年(1552年) - 元和6年1月25日(1620年2月28日))は、室町時代末期から江戸時代の武将。 亘理元宗の子。 通称は源五郎、美濃守。 官位は従五位下。
略歴
1566年(永禄6年)、元服し、伯父の伊達晴宗立会いのもと、名を重宗と改める。
1573年(天正元年)、伊達輝宗の命に従って最上領に通じる篠谷口(現・宮城県川崎町篠谷)に出陣した。
1574年(天正2年)9月1日、伊達・最上両家との和睦のため、最上家重臣氏家守棟と会談する。 同年11月19日、和睦が成立。
1576年(天正4年)、田村清顕の仲介で伊達・相馬両家の和睦が成立し、相馬義胤の妹が重宗の妻に迎えられる。
1578年(天正6年)、相馬家との和睦が決裂し、輝宗の命で相馬領へ侵攻。 伊具郡で合戦している。
1581年(天正9年)11月17日、人取橋の戦いにおいて父と共に出陣し、蘆名・佐竹連合軍と合戦。
1583年(天正11年)、相馬家に奪われた城を奪取するために明護山に砦を築いて重宗・佐藤為信らを城将に任じられる。
1589年(天正17年)、陸奥国宇多郡駒ヶ嶺城を先鋒として攻略し、これを落とした。 直後、宇多郡北部が所領となる。
1590年(天正18年)、相馬義胤の居城中村城を攻略。 石上村・小豆畠において激突し、双方に甚大な被害が出た。 同年6月24日、大崎・葛西一揆が起こり、伊達政宗に従って出陣。 敵拠点佐沼城で先陣の指揮を取るが左股を負傷している。
1591年(天正19年)、豊臣秀吉が領地国替を命じたため、亘理家も居城を陸奥国遠田郡桶谷城へ移した。
1592年(文禄元年)より、江戸に詰めて江戸屋敷留守居役となる。
1594年(文禄3年)6月19日、父元宗が病死。 父の遺物の太刀を政宗に送り、政宗より書を賜る。
1600年(慶長5年)、上杉景勝が石田三成に呼応して奥州へ出陣。 重宗の代理として嫡子定宗が出陣、白石城を落として徳川家康から賞された。
1604年(慶長9年)、隠居を申し出て、家督を婿養子宗根(伊達政宗の庶子)に継がせ、嫡子定宗は伊達一門に列し、桶谷伊達家を興した。
1611年(慶長16年)4月7日、妻が病死する。
1620年(元和6年)1月25日、病死。 享年69。
最近様子がおかしい
セフレ関係も終わりに近いのかもしれない。
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