居城・墓所

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    居城
    米沢城(山形県米沢市) - 永禄10年(1567年)〜天正13年(1585年)
    小浜城(福島県二本松市) - 天正13年(1585年)〜天正14年(1586年)
    米沢城 - 天正14年(1586年)〜天正17年(1589年)
    黒川城(福島県会津若松市追手町) - 天正17年(1589年)〜天正18年(1590年)
    米沢城 - 天正18年(1590年)〜天正19年(1591年)
    岩出山城(宮城県大崎市) - 天正19年(1591年)〜慶長5年(1601年)
    仙台城(宮城県仙台市青葉区) - 慶長5年(1601年)〜寛永4年(1627年)
    若林城(宮城県仙台市若林区) - 寛永4年(1627年)〜寛永13年(1636年)
     
    墓所
    墓所:仙台市青葉区霊屋下の瑞鳳殿(ずいほうでん)。
    これは政宗の死後、伊達忠宗によって寛永14年(1637年)10月に建立された。
    昭和6年(1931年)に国宝に指定されたが、昭和20年(1945年)の戦災で焼失し、現在の瑞鳳殿は昭和54年(1979年)に再建されたものである。
    再建に先駆けて、昭和49年(1974年)には発掘調査が行われ、遺骨の学術的調査から身長は159.4cm(当時の平均的身長)であることや、 遺骸毛髪から血液型がB型であることが判明した。
    また、副葬品として太刀、具足、蒔絵を施した硯箱、鉛筆、懐中日時計兼磁石、懐中鏡、煙管、銀製ペンダント、黄金製のロザリオなど、30余点が確認されている。


    政宗の野望

    政宗の野望
    政宗は豊臣政権時代から、隙あらば天下を簒奪しようと何度も策略していたとされている。
    秀吉の小田原征伐のとき、参陣に遅延したのは、奥州、特に新たに手に入れた蘆名家領土の「経略多端」の故と弁明している。
    佐竹氏一派と対抗し、同盟関係にあった後北条氏と手を結んで秀吉を倒そうとした。
    秀吉は、伊達氏を従えて奥州仕置を行なった。
    また、伊達家を中心に奥州の諸大名の連合軍を組織し後北条氏と連携、徳川家康ら豊臣家中の不穏分子の蜂起を待つという構想も持っていたようだ。
    葛西大崎一揆を扇動して、密かに領土拡大を狙ったという説がある。
    関ヶ原の戦いのとき、和賀忠親を扇動して南部利直の領土を侵略しようとしたが失敗した。
    政宗の裏切りに対して家康は報復し、刈田郡のみの加増にとどめた。
    これは東軍参加の武将の中では加増の伸び率が最も少ない部類である。
    政宗の関ヶ原直前の所領58万石は度量衡改定以前の一反三百六十歩で計算されたものという説があり、これが正しいとすると豊臣政権において定められた一反三百歩で計算した場合、67万石にまで上昇する。
    また仙台平野には開墾に適した三角州などの土地が多数存在し、当初から土地には余裕があった。
    政宗は関ヶ原以降、開拓地を知行として与える方式を取りら各領主に開墾を奨励、仙台平野の新田開発を推し進めた(1628年には、白石城主片倉重長が新田開発を行い千石相当の石高を新たに獲得している)。
    この政宗に始まる開墾事業は後の藩主たちにも受け継がれ、仙台藩の実高はみるみる増大した。
    寛文年間以降は藩自らが主動した新田開発も行われた。
    100年後の江戸時代中期には実高200万石とも謳われる日本最大級の藩に成長した。
    政宗が江戸に廻送を始めて以降、江戸に供給される米の大半は仙台の米となり、作の豊凶は江戸の米相場を支配するほどであった。
    最盛期には表高の1/3にあたる二十万石もの米が江戸に出荷されていた。
    享保17年(1732年)には、西国の蝗害により江戸で米価の暴騰が起こり、例年の倍以上の米が出荷されたとある。
    なお、このときの収益は約50万両にものぼったという。
    この豊かさは広く知られており、安井息軒の『読書余滴』に「二百万石余」、帆足万里の『東潜夫論』には「二百五十万石」との記述がある[26]。
    政宗は幕府転覆を図るために、支倉常長を使者としてローマに派遣した(慶長遣欧使節)。
    このときのことを示す有力な史料もある。
    支倉常長はローマとの軍事同盟交渉のとき、国王・フェリペ3世に対して、「政宗は勢力あり。また勇武にして、諸人が皆、皇帝となるべしと認める人なり。けだし日本においては、継承の権は一に武力によりて得るものなり」と発言している。
    また、仙台藩の庇護を受けていた宣教師のジェロニモ・デ・アンジェリスも、次のような手紙を本国に送っている。
    「テンカドノ(家康)は政宗がスペイン国王に遣わした使節のことを知っており、政宗はテンカに対して謀反を起こす気であると考えていた。彼ら(家康・秀忠父子)は政宗がテンカに対して謀反を起こすため、スペイン国王およびキリシタンと手を結ぶ目的で大使(支倉常長)を派遣したと考えた」

    政宗の野望2
    支倉常長はローマ教皇にも謁見した。
    この時代の日本人がローマ教皇に謁見した史実は、日本の外交史の中で特筆される実績であり、今でもスペインのコリア・デル・リオには現地に留まった仙台藩士の末裔が多数存在する。
    彼らは「日本」を意味する「ハポン」を姓として名乗っている。
    また、政宗は幕府軍と天下を賭けて戦うことになった場合には、「仙台御陣の御触に付御内試」という、幕府軍との決戦に備えた図上演習、すなわち作戦立案をしていたと言われている。
    「元和二年大坂御陣落去以後。仙台出馬之由にて御陣触御座候。此時貞山(政宗)様御内試に。御家中の妻子人しち御取なされ。さて仙台川を藤塚閑上辺にてせき留藤塚へ番勢を被指置。御裏林より砂押へ御馬を被出。砂押御鉄砲薬蔵の南の山。にか峯に御旗を被立。御対陣可被成との御内試にて。其節ひしと御裏林よりかの地へ。御出御見分被遊候」(仙台川(現在の名取川)を堰き止めて仙台南部を水浸しにして幕府軍の進軍を阻止し、さらに狭隘地に幕府軍を誘い込んで迎撃する一方で、一揆衆を幕府軍後方で扇動し、後方を撹乱するつもりだった)。
    「大軍を御引受。御境目之御一戦。万一御おくれの刻。右に書付御内試之通。横川筋へ御馬を被入候節。御定かかりの地と申候。自然御運命尽夫も不被為叶時節に候はば。御最期之場と思召にて、瑞巌寺御菩提所に御取立被成候よし」(政宗は幕府軍に敗れた場合は、松島瑞巌寺にて自害するつもりだった);(『東奥老子夜話』より抜粋)。
    しかし、政宗と親密であった徳川家の家臣、大久保長安が死後に一族もろとも処罰され(大久保長安事件)、娘婿の松平忠輝(家康の六男)が改易され、スペインとの同盟が不調に終わり、倒幕は実現されなかった。
    幕府は政宗存命中は、政宗がいつ謀叛を起こすかと常に警戒していたといわれている。
    家康晩年の元和2年(1616年)1月23日のイギリス商館長・リチャード・コックスの日記では、「風評によれば、戦争は今や皇帝(家康)とその子カルサ様(松平上総介忠輝)との間で起こらんとし、義父政宗殿は、カルサ殿の後援をなすべし云々」と記されている。
    寛永5年(1628年)3月12日、政宗は徳川秀忠を仙台藩江戸屋敷に招待して供応した。
    このとき、政宗自らが秀忠の前に膳を運んだのだが、そのとき秀忠側近の内藤正重が、「伊達殿に鬼見(毒見)をしてほしい」と声をかけた。
    政宗はこれに対して、「外記(正重)言はれぬ事を被申候。政宗程の者が御成を申自身御膳を上るうへ。おにする(毒見する)所にてはなきぞ御膳に毒を入るるは、早十年前の事なり十年前にも。日本の神かけて毒などにて。殺し奉るべきとは夢々思はぬぞ。一度は乗寄てこそとは思ひ候」と激怒して返答したと、『政宗公御名語集』に記されている。
    つまり、10年前の元和4年(1618年)なら、(徳川幕府の基盤がまだ磐石ではなかったため)謀反を起こす気もあったが、その時でさえ、この政宗は毒殺などというせせこましいことはせず、一槍交えて戦おうとしただろうと正重を厳しく叱責しているのである。
    秀忠は御簾の向こうでこのやりとりを聞き、「さすがは伊達の親父殿よ」と涙したという。
       

    政宗の野望3
    徳川秀忠は寛永9年(1632年)1月に死去したが、このとき秀忠は政宗を枕元に呼び、次のように述べたと『政宗公御名語集』にはある。
    「年月より病気次第に心重く覚候。兎角して快気難成覚候間。少も本心の有内に。其方へ掛御目度事は昔より今日至迄。御心指一ツとしてわするる事なし。大御所(家康)様駿河の御殿にて御病気重き折節悪き者の申入候にて、己に其方謀反のよし其聞へ候間。我等も御病気にもかまはず奥州へと心掛候」(家康が駿府城で死の床に臥していたとき、政宗が謀反を起こすという噂が立ったので、家康は自分の病気にかまわず奥州討伐のための軍を起こそうとしていた)。
    晩年の政宗は、『酔余口号』という漢詩を残している。
    「馬上少年過、世平白髪多、残躯天所赦、不楽是如何」というものであり、前半の三句は「若い頃は馬に乗って戦場を駆け抜けたが、世は太平になり自分にも白髪が増えた。天に与えられた余生が残ってはいるが」と解釈できるものの、最後の句は「楽しまずんば是いかん(これを楽しまずしてどうしようか)」あるいは「楽しまず是如何に(楽しいとは思えないのはどうしたことか)」と全く違う二通りの解釈ができてしまう。
    政宗自身がどちらともとれるように作ったとも言われているが、政宗の残した大きな謎となっている。
    仙台城は山城で平和な世の治世には適さぬとして、自分の死後、平城へ移ることを奨めていた。
    逆に言えば生前は死の前まで天下を取る野心を捨てていなかったといわれる。
    上述のように隙あらば天下を取ろうと狙っていた彼は、中央から常に警戒されていた。
    彼は「あと20年早く生まれていれば……(天下が取れたのに)」と悔しがっていたといわれる。
    その一方で、家光の代においては「かつては天下を狙っていたが、今は家光を支える立場である」という事を示す逸話が見られる。
    家光の就任の宣言は「祖父、父とは違い、自分は生まれながらの将軍であるから、大名方は今後は臣従の礼をとるべきだ。
    異論があるならば国へ帰り戦の準備をされよ」という大変威圧的なものであった。
    政宗はこれに対し「政宗はもとより、異論のある者などおるはずがありませぬ」と即座に継ぎ、その場の皆が平伏したとされている。
    この家光の発言は政宗の助言によるものだったとも、あるいは幕閣が政宗に予め根回して即座に返答するよう依頼したとも言われている。
    家光が鷹狩に没頭し、下宿(外泊)を頻繁に行うのに困った幕閣が政宗に説得を頼んだ時のこと、政宗が「下宿はお止め下さい。私も家康公の御首を何度か狙ったことがございます」と家光に言い放つと、以後下宿を行わなくなったという。

    熟女
    官職位階履歴
    ※日付=旧暦(明治5年12月2日まで)
    天正12年(1584年)10月 - 家督継承。
    天正13年(1585年)閏8月 - 従五位下美作守に叙任。
    天正14年(1586年) - 左京大夫に転任。
    天正19年(1591年)3月 - 侍従に遷任し、越前守を兼任。
    羽柴の苗字を関白豊臣秀吉から授かる。
    慶長2年(1597年) - 従四位下に昇叙し、右近衛権少将に転任。
    越前守如元。
    慶長13年(1608年)1月 - 陸奥守を兼任。
    越前守任替。
    松平の苗字を第2代将軍徳川秀忠より授かる。
    元和元年(1615年)
    閏6月19日 - 正四位下に昇叙し、参議に補任。
    月日不詳 - 参議辞職。
    寛永3年(1626年)8月19日 - 従三位権中納言に昇叙転任。
    寛永11年(1634年)8月 - 所領石高62万5000石となる。
    大正7年(1918年)11月18日 - 贈従二位。
     
    別名
    伊達美作守
    伊達左京大夫
    羽柴伊達侍従
    羽柴長井侍従
    羽柴陸奥侍従
    羽柴侍従
    羽柴大崎侍従
    大崎侍従
    大崎少将
    羽柴越前守
    松平陸奥守
    仙台宰相
    仙台中納言
    ※ 他に独眼龍、仙台黄門など
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