独眼竜

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伊達政宗
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    独眼竜

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    政宗の異名『独眼龍』について
    伊達政宗が「独眼龍」のあだなで呼ばれるのは、江戸時代後期の儒学者頼山陽の賦した漢詩にまで遡る。
    山陽の没後、天保12年(1841年)に刊行された『山陽遺稿』に収められた「詠史絶句」15首のひとつに、政宗に題を採ったものがある。
    天保元年(1830年)の作とされている。
    横槊英風独此公
    肉生髀裏斂軍鋒
    中原若未収雲雨
    河北渾帰独眼龍
    槊を横たふる英風独りこの公
    肉髀裏に生じて軍鋒をおさむ
    中原もしいまだ雲雨収まらずんば
    河北すべて帰せん独眼龍
    (出典)
    伊藤靄谿注釈『山陽遺稿詩注釈』 書藝界、1985年
    頼成一・伊藤吉三訳注『頼山陽詩抄』 岩波書店〈岩波文庫〉、1944年
    「独眼龍」は、もともと中国の唐王朝末期、各地に割拠した軍閥の首領のひとりで、そのなかでも軍事的に最強と謳われた李克用のあだなである。
    たとえば『資治通鑑』巻第255に「諸将みなこれを畏る。
    克用一目微眇なり。
    時人、これを独眼龍と謂う」とある。
    ただし、漢字の「眇」には「片方の目が見えない」という意味と「一方の目が他方よりも小さい」という意味とがあり、李克用がどちらであったかははっきりしない。
    隻眼の伊達政宗をあえて李克用になぞらえたのは山陽の詩的独創に属する。
    起句の「槊」は「ほこ(矛)」であり、魏の曹操が赤壁の戦いを前にして陣中で武器を小脇にはさんで詩を賦したという伝説に基づき、北宋の蘇軾が『前赤壁賦』で「?酒臨江、横槊賦詩、固一世之雄也」と詠い、一代の英雄として讃えたことを踏まえる。
    曹操に匹敵するほどの文武両道に秀でた英雄は、日本では政宗だけだというのである。
    承句は、同じく三国志の英雄劉備の「髀肉の嘆」の故事を踏まえたもので、そんな英雄政宗も平和の訪れととともに軍を収め、体がなまったことを嘆くようになったことをいう。
    転句の「中原」は黄河中流域を指し、唐の首都長安・副都洛陽を含む地域であり、古代殷王朝・周王朝以来、中華文明の中心地として栄えた地である。
    当時は、李克用の終生の仇敵である軍閥朱全忠の支配下にあった。
    朱全忠はのちに唐王朝から帝位を奪い自らの王朝後梁を樹立する。
    ここでは政治・経済・文化の中心地として、日本の近畿地方の比喩となっている。
    「雲雨」は戦乱の比喩である。
    結句の「河北」は現在の河北省の地ではなく、漠然と黄河の北側の地域をいい、李克用の本拠地晋陽(現在の山西省太原市)が中原に対して黄河の北方にあったことを指す。
    ここでは日本の東北地方の比喩である。
    中原の戦乱が終息しなければ、つまり、織田信長や羽柴秀吉による天下統一事業があれほど急速に進展しなかったならば、東北地方全域が政宗の支配下に入っていたに違いない、と山陽は政宗が“遅く生まれてきた”ことを惜しんでいるのである。
      


    系譜

    系譜
    正室:愛姫 - 田村清顕娘
    五郎八姫 - 松平忠輝室、忠輝改易後に離縁
    伊達忠宗 - 仙台藩第2代藩主
    伊達宗綱 - 栗原郡岩ヶ崎要害館主
    竹松丸
    側室:新造の方(六郷伊賀守娘)『飯坂盛衰記』『竜華山史』では秀宗、宗清の母は六郷氏となっている。
    史料により差異がある。
    伊達秀宗 - 宇和島藩初代藩主
    伊達宗清 - 飯坂宗康養子 - 一門吉岡伊達家始祖
    側室:飯坂の局(飯坂宗康娘、松森御前)『寛政重修諸家譜』では秀宗、宗清の母は飯坂氏となっているが、飯坂の局には子はなく新造の方が逝去したため宗清の養母になったとされている。
    側室:塙氏 - 塙直之娘
    伊達宗泰 - 一門岩出山伊達家始祖
    側室:阿山方 - 柴田宗義娘
    伊達宗信 - 栗原郡岩ヶ崎要害館主
    伊達宗高 - 柴田郡村田要害館主
    牟宇姫 - 石川宗敬室
    側室:弘子姫 - 芝多常広娘
    (亘理)伊達安房守宗実 - 伊達成実養子、一門亘理伊達家当主
    側室:勝女姫 - 多田吉広娘
    岑姫 - (涌谷)伊達安芸守宗実室
    伊達宗勝 - 一関藩主
    側室:妙伴 - 村上正重娘
    千菊姫 - 京極高国室
    愛妾:於種の方(香の前) - 高田治郎右衛門娘(京都伏見)、文禄元年の朝鮮出兵時に豊臣秀吉から茂庭綱元が秀吉の寵姫を貰い受け、後に政宗に引き合わせた。
    津多女 - 落胤、系譜上の父は茂庭綱元、原田宗資室、慶月院
    亘理宗根 - 落胤、系譜上の父は茂庭綱元、涌谷領主亘理重宗の養子、登米郡佐沼要害館主


    伊達成実
    伊達成実
    伊達 成実(だて しげざね)は、戦国時代後期・江戸時代前期の武将。
    仙台藩初代藩主・伊達政宗の重臣で、仙台藩一門第二席・亘理伊達氏の初代当主。
    父は伊達実元、母は実元の兄・伊達晴宗の娘。
    明治維新後、家臣とともに胆振国有珠郡に移住して現在の北海道伊達市の礎を築いた伊達邦成は、亘理伊達氏第15代当主である。
     
    生涯
    青年期まで
    永禄11年(1568年)、信夫郡大森城主・伊達実元の嫡男として生まれる。
    幼少の頃には、時宗の僧・了山和尚(伊達郡粟野村の専念寺住職)を師として学問を修めた。
    天正7年(1579年)、大森城にて元服(烏帽子親は伊達輝宗)。
    天正12年(1584年)頃、家督を継いで伊達領南方の抑えという重責を担う。
    天正13年(1585年)の人取橋の戦いでは、伊達勢が潰走する中にあって奮戦して政宗を逃がす。
    天正14年(1586年)には二本松城主となり、安達郡33邑(およそ38000石)の所領を与えられた。
    天正16年(1588年)の郡山合戦では、寡兵で蘆名義広の攻勢をしのぐ一方で大内定綱を調略して帰参させ、天正17年(1589年)の摺上原の戦いでは、突出した敵の側面を強襲して合戦序盤の劣勢を覆すなど、伊達勢の中核として活躍し数々の軍功を挙げた。
    天正18年(1590年)5月、政宗が豊臣秀吉の小田原攻めに参陣した際には、黒川城に残って留守居役を務めた。
    同年10月に発生した葛西大崎一揆鎮圧にも従軍したが、一揆煽動が露見して政宗が秀吉に上洛を命じられると、国分盛重と共に蒲生氏郷への人質として名生城に入った。
    天正19年(1591年)、政宗の岩出山城への転封に伴い、成実は旧領の二本松に代わって新たな所領(伊具郡16邑・柴田郡1邑)を与えられ、居城を角田城へと移した。
       

    出奔
    出奔
    文禄4年(1595年)、成実は突如として伊達家を出奔し、角田城は政宗の命を受けた岩出山城留守居役の屋代景頼によって接収され(成実の家臣・白根沢重綱らの内報を受けた景頼が角田城を急襲したともいわれる)、この際に抵抗した成実の家臣・羽田実景ら30人余が討死し、成実の家臣団は解体された。
    なお、成実の妻子が角田城接収にあたり、景頼によって殺害されたというのは誤りである。
    成実の正室・亘理御前は既に他界しており、この時点で他に妻子が存在したという史料も無い。
    ただ、この事件については不明な点があまりにも多い。
    まず出奔の日付自体に諸説があり、出奔先も高野山・相模国糟谷の両説があり、出奔の理由についても、文禄の役の軍功に対する恩賞への不満が原因とする説、秀次事件への政宗の連座を避けるために嫌疑の内容を自らが被って隠遁したとする説などがある。
    また軍記物においては、秘密工作実行のために政宗の命を受けて出奔したと描くようなものも有る(『蒲生軍記』)。
    慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが起こると、上杉景勝から禄高5万石で家臣となるよう誘われたが、成実はこれを拒絶した(「本来ならば家臣筋の家に仕えるつもりはない」と断ったという)。
    一説には徳川家康からも誘いを受けたといわれる。
    同年秋、留守政景・片倉景綱らの説得によって帰参し、7月の白石城攻めにも石川昭光の軍に属して参加したという。

    人妻
    亘理領主として
    慶長7年(1602年)、白石城に移った片倉景綱に代わって亘理城(亘理要害)に入り、亘理郡のうち23邑・計611貫356文を拝領する。
    成実は所領の開発・復興に力を注ぎ、亘理入府からの30年間で当初拝領した分の貫高を2倍にまで押し上げた。
    しかも、成実の代に行われた堰の改修・掘削の成果によって、成実没後も新田開発はますます進み、亘理伊達氏の最終的な表高は2385貫302文(延宝7年(1679年)調べ)にまで達した。
    一門の家格に復した成実は、慶長11年(1606年)の政宗の娘・五郎八姫と家康6男・松平忠輝の婚礼の際の使者や、慶長19年から20年(1614〜15年)にかけての大坂の役参陣、元和8年(1622年)の最上氏改易に伴う野辺沢城接収など数々の大役を担った。
    政宗没後、2代藩主・忠宗の下でも家中の長老として重きをなし、寛永15年(1638年)、前年に藩内で発生した洪水への対策費用として幕府から銀5000貫を拝借した際の御礼言上のため、忠宗の名代として江戸に赴いた。
    この時饗応の席において、奥羽での軍談を所望された成実は、仙道人取橋の合戦を物語り、御簾を隔てて聞いていた将軍・徳川家光に感銘を与えた。
    正保3年(1646年)2月、養嗣子・宗実に家督を譲り、同年6月4日に死去。
    享年79。
    墓所は亘理の大雄寺(境内の亘理伊達氏墓所に「伊達成実霊屋」がある)。
    明治12年(1879年)には、遺徳を慕う亘理郡民の呼びかけにより、亘理要害本丸跡に建てられた亘理神社に武早智雄命として祭られ、成実は今もなお亘理において深く敬愛されている。
    最近の人妻は孤独で寂しいのです。だから人妻の本当の内面を見ましょう。

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